管理人ちはやの気侭日記。
禁・海賊行為。
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誤ったなら謝罪をしろ、過度な期待をするな、相手を見ろ、心を配れ。愛情を免罪符にするな。
今を生きる子どもの今の真剣な苦痛や悩みを、いつかは笑い話になるさと思うだけならまだしも口に出す大人が嫌いだ。自分から自分を反面教師だと言う、子どもの前で当たり前に自分を誇らない大人が嫌いだ。相手が子どもだからと言うだけで謝罪を躊躇う大人が嫌いだ。
尊敬されたいのならばそれに見合う行動をしろ。それこそ子どものような癇癪を子どもに対してぶつける人間を馬鹿と呼ぶことの何が間違っているのか教えてくれ。歳が上だから、養っているから、生んでやったから、それだけで絶対的な敬意を得られると思ったら大間違いだ。感謝と敬意は別物であることに気付くべきである。そもそも、子どもが生まれたかったかどうかなど子どもにも分からないのだから"生んでやった"ことに胡坐をかくのは無理がある。"生んでもらえて良かった"と子どもに感謝されるかどうかは、一重に生んだあとの大人の頑張り次第だ。生んでやった?俺の家だから俺の好きにする?邪魔だからどけ?ふざけるな。自分で自分の家で自分の好きなようにだけしたいのなら、何故結婚した?何故家族をつくった?一人で自分の思うように生きれば良いだろう。家族とは自分の思い通りになる己が絶対的に優位に立てる所有物ではない。他人と他人と他人と他人がひとつ屋根の下で衣食住を共にしている、ただそれだけの集まりである。そして、養
い育てなければならない子どもをつくったのは、絶対的に、己の責任だ。義務は全うしなければならない。その過程で、感謝され、尊敬されるかは、自分次第ではないのか。大人が仕事をして、家事をして、だから子どもは良い生活ができている。それに気付かない子どもは愚かだろう。しかしそれを己の口で豪語し、さぁ感謝しろと宣う大人はより愚かだ。子どもの感謝の念に気付いていないのか、子どもが感謝すらできないような自分に気付いていないのか。
愛しているという言葉に何の価値がある。
態度の伴わない言葉などただの音の連なりだ。そんな薄っぺらなものひとつでまるで全てを許されたような気になるのは、ただただ此方の気持ちに寄りかかっているだけでしかない。愛しているなら態度で示せとは言わない、愛しているからと言って横暴や最悪の失敗が許される訳ではないと理解しろ。相手が子どもであれ大人であれ、怒らせたなら、悲しませたなら、傷付けたなら、すべきなのは信憑性のない愛を囁くことではなく真摯に受け止め理解しようと努力しそして精一杯の謝罪することである。
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